願泉寺

願泉寺の開基は今を去ること1400年、

聖徳太子の時代、西暦603年(推古11年)と歴史が深く

開基当時は無量寿寺院と呼ばれていました。

開祖は小野妹子の八男にあたる義持【法名:聖伝院永証】。

当時は、西北数百メートルの場所にありましたが

応仁の乱により焼亡し、

1507年(永正4年)に現在の地に再建されました。





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 土佐光成(とさみつなり)筆 飛鳥井雅光讃 願泉寺古図



願泉寺の寺号は、かつて大阪城の地にあった石山本願寺

「願」からつけられたもので

「日下山願泉寺」と称するようになりました。

他面風雅を解していた住職三十一世定龍(1640年寂)は

武野紹鴎(1555年寂)千利休(1591年寂)とも親交がありました。

石山本願寺の跡に構築せられた大阪城が当時の政治の中心地となり、

参観の諸国大名中には定龍について茶礼を学ぶものも多くありました。

後に豊臣徳川が不和となり、元和元年(1615年)大阪城落城の後、

当時定龍と親交のあった仙台候伊達正宗は、

帰国に際してその客殿(蔽ひ堂)と茶席(泰慶堂)を定龍に贈りました。

その後寛永2年(1625年)大道町、久安よりの出火に際して

本堂、庫裡などを消失しましたが客殿、茶室は難を免れ、

それらは1937年(昭和12年)に国宝建造物に指定を受けましたが、

昭和20年の大阪大空襲でおしくも焼亡してしまいました。                                                               




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焼失した願泉寺本堂 




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焼失した茶室



その後、20坪あまりのバラックの再興を皮切りに

4年の歳月をかけて本堂を再建、

それに併して客殿、表門及び土塀を築造し今に至っています。

幾多の難を耐え抜いた、境内に現存する府指定名勝の庭園は

京都の庭師である相阿弥(そうあみ)によって造られた

100坪ほどの名園で1938年(昭和13年)に

府の名勝に指定されるとその名は高まり、

一躍大阪の名所となって訪れる人が絶えなかったといいます。

今では辺りの風景も変わってしまいましたが、

この庭園だけは時代の流れをよそに、

風趣のある姿を変えずにいます。

初夏はさつき、秋は紅葉が美しく、

四季をめぐってこの歴史ある境内に彩りを添え、

やすらぎの時間と空間を創り出しています。





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今の茶室の外観 




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茶室の内観